信仰とパラドックス −−古い雑記帳から−− 2004.12
パラドックス=「一見矛盾または不合理のようで実際は正しい説」。
○「わたしたちが完成されるただ1つの道は、自己を捨て、そして、ある意味では、自己の完成を忘れてキリストに従うことであるというおそろしいパラドックスを、プロメテウスは忘れているのです。」(トーマス・マートン「新しい人」より)
○「ところである種の、極めて優れた知性の持ち主である神秘家は「恍惚とした忘我の状態において、精神は、知的な完成の神的な段階に到達する」という。言い換えれば、忘我の状態こそ知性の完成というのです。これは重大な証言です。」(正田昭「黙想ノート」)
○「自分の命を救おうと望む者は、それを失い、私のために命を失う者はそれを得る。」(マタイ16:25)
○「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くのみを結ぶ。(ヨハネ12:20−26)
○「『私はあなたのうちに憩うまで心の平安を得ることはなかった』という有名なアウグスチヌスの言葉を思い出すまでもなく、私たちはまず自分の幸せのために神を求め、美を求め、異性を求める。これはエロスの情熱愛である。これは素晴らしいことであるし、エロスの情熱愛がなければ私たちは神をも美をも異性をも求めようとしないに違いない。ただこのエロスが一度『向こう側から来る者』によって否定され、転換されて、アガペーのうちに死して生きることによって、真実の己を獲得していく過程が、宗教にとって不可欠であろう。エロスは否定され切り捨てられてしまうべきものではなくて、アガペーのうちに完成されるべきものなのである。(井上洋治「余白の旅」)
○「私の神、私の神、どうして私を見捨てられたのか」(マタイ27:46)
○「その神の恐るべき超絶性の認識と、その超絶せる神に「アッバ、父よ」と呼びかけることができる驚くべき神との親交性とのパラドックスの中に、祈りの本質は隠されているのである。(奥村一郎「祈り」)
○「人間的現実の本質の実現とは、人間が自分を神なる絶対的神秘に委ねきることにおいて、まさに自分の人間たる本性を全うすることである。」(カール・ラーナー「キリスト教とは何か」)
○「聖なる」教会は「罪人」によって構成される。(出典不詳)