有坂家−私のルーツ探し

 

                   有坂 文雄

 

 はじめに、私が我が家のルーツに興味を持ったきっか

けを述べたいと思います。ことの始まりは、東京都立大

学の慶谷壽信先生が私の叔父について調べていらっ

しゃって、七、八年前にその調査の一部を論文にしたも

のをいたださました。叔父の秀世は「音韻論」の研究を

していたのですが、慶谷先生は叔父の仕事を高く評価さ

れ、学問そのものだけでなく、そういう業績が生まれた

背景として、叔父の生い立ちや祖父の事跡なども調査し

ておられました。それまで私は父のことさえあまり知ら

なかったのですが、これがきっかけとなって自分のルー

ツを探ってみたいと思うようになりました。

 

江戸切り絵図

 とりあえず手がかりにしたのは祖父の海軍奉職歴でし

た。これは長兄の英雄が厚生省の地下の図書室で写して

きたもので、それによりますと、出生地は東京市牛込赤

城下片町とあり、生年月日は明治戊辰年一月十一日とあ

ります。しばらくして、神田の古書店で嘉永五年(一八

五二)秋新刻の「小日向の切り絵図」に、有坂仁三郎と

いう人物の屋敷があるのを見出しました。嘉永二年(一

八申九)版の「切り絵図」でも有坂仁三郎の名前がみら

れますが、安政三年(一八五六)版では有坂理十郎と

なっています。また、「御府内沿革書絵図集」の天保元

年(一八三〇)の絵図では有坂利十郎となっていること

が分かりました。この時点では有坂仁三郎、有坂利十郎

(理十郎)が我々の先祖と直接関孫があるか否か分かり

ませんでしたが、この場所は祖父の出生地である「牛込

赤城下片町」という地名に合致しており、関係のある可

能性が高いと思われました。

 

沼 津

 祖父有坂?蔵の著書に「兵器沿革図説」があり、その

復刻版が昭和五八年に原書房から出ています。その復刻

版に中村義彦氏が解説を書かれており、?蔵の父の銓吉

は「江川太郎左衛門の配下にあった」という記述があり

ました。後にこれは誤りであることが分かりましたが、

これから手がかりが得られないかと考え、人物叢書「江

川坦庵」(吉川弘文館)の著者である仲田正之先生に

伺ってみたところ、江川太郎左衝門の配下に「有坂」と

いう名は見たことがないが、調べてみましょう、と言っ

て下さいました。始めに韮山の江川文庫に電話してみて

そちらから仲田先生を紹介されたのです。何ケ月か後に

仲田先生から沼津明治資料館の樋口氏が、曾祖父銓吉の

名前を静岡藩の職員録に見出された由、お便りをいただ

さました。明治二年の「沼津御役人付」には有坂銓吉が

静岡藩沼津郡方並として記載されており、翌三年には郡

方として記載されていることが分かりました。

 

歴史フォーラム

 当時、私はパソコン通信を始め、Nifty Serveに加入

して歴史フォーラムにアクセスしていました。ある時、

思い切って歴史フォーラムで発言し、「先祖について調

べようとしているが、どのようにして調べたらいいか教

えて下さい。」というメッセージを載せてみました。す

ると早速、フォーラムの責任者から発言があり、新人物

往来杜に歴史研究会というのがあるので、そこに連絡し

てみたら、と言うことでした。早速連格してみたところ、

そういうことなら家系図学会の事務局に適格するといい

と教えられ、事務局長の楡井氏とお話しする機会を得ま

した。その楡井氏から小川恭一先生を紹介していたださ

ました。小川先生は、埼玉県史調査報告書「分限帳集

成」の中の文化十年(1813年)度「普請役分限帳」

と「江戸幕府勘定所史料−会計便覧」(吉川弘文

館)に有坂という名前があると教えて下さいました。

 「普請役分限帳」には有坂勝三郎の記述が見られ、そ

の人が有板弥右衛門の養子であることが分かりました。

勘定所史料の方では、有坂理十郎と有板銓吉の名前が見

られ、理十郎と銓吉は親子関係であることがほぼ確かと

思われました。また、この三人の住所がいずれも「小日

向馬場先片町七軒町」とあるので、私どもの先祖である

ことははぼ間違いないと思われましたが、確かな関係は

不明なまま残されました。

 

河合順輔という人

 結局、最柊的に上記の四人の人物(弥右衛門、勝三郎、

理十郎、銓吉)の親子関係が分かったのは小川恭一先生

から教えていただいた「江戸幕臣人名事典」(二)(新

人物往来社、54頁)の記述でした。そこに河合順輔とい

う人の記述が見えます。そこから、順輔の実父が有坂理

十郎であること、実祖父が有坂勝三郎であっていずれも

四川用水方普請役であることがわかりました。曾祖父の

銓吉も四川用水方普請見習であって親子関係がほば確か

なことから、弥右衛門(養子)勝三郎−理十郎−銓吉

?蔵とつながることが分かりました。順輔は銓吉の十

歳ほど上の兄であることになります。なお、「分限帳集

成」には松平伊豆守信綱「万治元年家中分限帳」があり、

さらに古い人で、本国上野(こうずけ)とする代官「有

坂善右衛門」という人が見られますが、この人が先祖と

直接関係あるかどうかは不明です。

 

有坂勝三郎

 「普請役分限帳」によりますと、有坂勝三郎は、明和

五年(1768)頃の生まれで、弥右衛門の養子となっ

たことが分かります。寛政三年(1791)四月に弥右

衛門から家督を相続し、譜代席となったので家禄があり、

非役侍命の小普請組におりましたが、同年十二月に代々

の役職である御留守居同心に就職し江戸城の中の番所勤

めをし、同七年に代官伊奈友之助の手附けとなりました。

「武鑑」によれば当時伊奈友之助は寛政から文化にかけ

て馬喰町御用屋敷を陣屋としていました。寛政十年、

同十一年、享和三年(1803)と昇進して、郡代組附

き(郡代屋敷の事務官)となりました。そして、文化二

年(1805)に普請役になっています。勝三郎の本国

は上野、生国は武蔵なので先祖の出身地は上野と思われ

ます。高三拾俵三人扶持、そのうち拾俵が御足高で、壱

人扶持が御足扶持なので、差引二拾俵二人扶持が有坂家

の代々相続する家禄だったことになるでしょう、と小川

先生から御教示をいただきました。

 勝三郎は既に文化十年(1813)に小日向(先片

町七軒町)に住んでいることが江戸切り繰図から分かり

ます。また、伏見弘氏から御府内沿革図書(「地図で見

新宿区の移り変わり」所収、牛込編252頁)に有坂

家の記述があることを教わりました。勝三郎は内藤新宿

(現在の花園神社前)に屋敷を持っていましたが、文化

六年(一八〇九)に朝比奈氏との相対替で新宿から引っ

越したことが分かります。

 

有坂理十郎

 理十郎が勝三郎の息子であることは上記の河合順輔に

ついての記述から明らかです。上記「江戸切り絵図」 の

小日向地区の地図には有坂仁三郎(にさぶろう)の名前

が見えることを述べましたが、この人物は不明です。し

かし、理十郎と同一人物である可能性が高いと思われま

す。当時は人が名前を変えることはめずらしくなく、自

分の新しい投機の上司に同じ名前の人がいると遠慮して

改名することなどはよくあったということです。

 上記「江戸幕府勘定所史料−会計便覧−」 には理十郎

の名前が四川用水方普請役として数回にわたって見られ

ます。即ち、天保一〇年(一八三九)、弘化三年(一八

四六)、弘化四年(一八四七) には理十郎のみで、嘉永

二年(一八四九)、嘉永三年(一八五〇)、安政三年(一

八五六)、安政四年 (一八五七)、安政六年(一八五

九)」 には普請役見習の鐙吉と共に記載されています。

 先に、パソコン通信の歴史フォーラムのことを書さま

したが、理十郎の仕事の内容を窺うことのできる史料が

「栢市史」 に載っていることを、「取手市史」 の編纂を

なさっていらっしゃる薮原敏吏氏から教えていただきま

した。理十郎が何回かにわたって住民に回状を出してい

ます。この結果、理十郎は特に小貝川担当であったと推

測されました。

 なお、最近小川恭一先生から戸森麻衣子氏の「近世後

期の幕僚代官所役人−その「集団」形成をめぐつて

−」と題する論文(史学雑誌第110編第3号所収)

を紹介していただきました。それによりますと、理十郎

は館柳湾(雄次郎)の三女万世を娶っています。万世は

三男一女をもうけました。年齢から考えて、河合家に養

子に行った順輔が長男、次項の銓吉が末子と思われます

舘柳湾<宝暦十二(1762)〜天保十五(1844)

>は江戸で漢詩人として知られた人で、代官所手付を務

めました。館家と有坂家の関係については最後にまた触

れます。

 

有坂銓吉

 曾祖父銓吉について父からは静岡の侍で身分はあまり

高くなかったらしい、という程度のことしか聞いていま

せんでしたが、すでに述べましたように、幕末まで四川

用水方普請役見習をしていたことが分かりました。静岡

での職責の経緯については既出の樋口氏から三年ほど前

にいただいた手紙を引用したいと思います。

 『駿東郡的場村(現在の清水町的場)名主をつとめた

豪農贅川家に伝来した古文書の中に「日下恵」(明治二

年)という表題のものがあります。これは、静岡藩から

の布達を名主が書き留めた帳面なのですが、その中に明

治元年十一月に写したという「駿河地方御姓名高附」と

いう部分があり、駿河国が二十に分割され各担当の「地

方御掛り」によって支配されたことがあります。そして、

その二十の中に駿東郡八幡を本拠として高10,867

石6斗4升5勺を担当支配した「飯田藤次郎・有坂銓吉

・羽生田直三郎」の名前があります。

 有坂銓吉ら、すなわち静岡藩の八幡役所が支配した一

万石余が具体的にどの村々なのかについては、残念なが

ら記載はありません。しかし、八幡村を中心に、現在の

清水町沼津市東南部の村々であったことは間違いあり

ません。

 二十の支配地はそれぞれ1万石前後を担当しており、

駿河留の総石高は23万石余りでしたので、八幡役所の

それも特に他と比較して多いとか少ないというわけでは

なかったようです。有坂銓吉は普請役だったという幕府

時代の経歴を貰われて、黄瀬川に接し、橋や東海道の往

還をかかえる支配地を担当することになったのかも知れ

ません。』

 それ以降については、前田匡一郎氏の「駿遠へ移住し

た徳川家臣団」に記述があることを小川恭一先生から教

えていたださました。それによりますと、銓吉はその後、

明治二年静岡藩沼津郡方並、同三年静岡藩沼津郡方を勤

め、同五年六月に宮内省に出仕しています。宮内省十三

等出仕ということでしたが、同年八年には任官内省中録、

同七年宮内省九等出仕、同十年宮内省四等属に任ぜら

れた後、おそらく病を得て明治14年2月12日に依願

退職し、七月二十三日に亡くなっています。

 銓吉は寺子屋で教えていたということを父から聞いて

いましたが、それに関する資料はそれまでなにもありま

せんでした。しかし、別の方向からこれを確認すること

ができました。銓吉は長女が夭逝した後、石川周二の三

男石川季三を養子にもらっています。石川周二は勘定所

詰めの普請役で静岡にやはり移住しました。元御家人で

したが、文久二年に旗本となり、御天守番之頭に昇進し

ています。静岡移住後は、横須賀奉行所の添奉行となり

(奉行は男谷勝三郎)、沼津権少参事郡政方となってい

ますから、沼津では銓吉の上司であったわけです。この

石川周二の次男の石川千代松は、かの大森貝塚発見者で

東京帝国大学動物学教授となったエドワード・モースの

弟子で、ダーウィンの進化論を広めた人として知られて

います。千代松も後に東京帝国大学動物学の教授になり

ました。その石川千代松が「老料学者の手記」という著

書を残しており、その中で、

 「八幡村の陣屋にいた頃、私は漢学を小林という先生

に教わり、習字を有坂先生(今の工学博士有坂?蔵君の

御尊父)に又英語を三谷と云う先生と、沼津に居られた

乙骨先生(太郎乙)とに教わったのである。」(老科学

者の手記12頁)と記しており、銓吉が書を嗜んでいた

こと、そして習字を教えていたことがわかります。これ

を支持するように前述の樋口氏から、東京掃苔録という

明治初期の著名人の墓地をリストした書物に、銓吉が谷

中墓地の項に「有坂菱湾(書家)名詮吉、明治一四年七

月二八日没」と記されていると教えていただきました。

また、伏見弘氏は江戸末期の「安政文雅人名録」という

冊子に銓吉が書家として記載されていることを指摘され

ました。銓吉が幕末まで住んでいたと考えられる小日向

(馬場先方町七軒町)の南側には小高丘の上に赤城神

社があります。その牛込郷社「赤城神社誌(大正十一年

十月十五日発行)には銓吉が、同社本殿の額に「赤城

社」と揮毫したという記述がありますが、残念ながら戦

災で焼け、額は残っていません。

 理十郎の項で記しましたように、館柳湾は銓吉の母方

の祖父にあたります。また、柳湾の従弟に書家として著

名な巻菱湖がおり、柳湾を終生慕っていたということで

す。これは推測ですが、銓吉が書家として用いていた

「菱湾」という号は、菱湖と柳湾の菱と湾から取ったも

のではないかと思われます。

 

静岡の移住先

 銓吉が家族と共に静岡に移住したのは明治元年九月頃

と推定されますが、移住先については祖父の残した随筆

集である「象の欠伸」に幼少の頃の家の周りの記憶につ

いての記述があり、そこから移住先は清水町八幡村(八

幡神社の近く)陣屋の南側と結論されました。私は一度、

息子を連れて清水町を訪れ、八幡神社を訪ねましたが、

八幡神社の宮司さんが大変親切に対応してくださいまし

た。祖父の随筆をお見せしてお考えを伺ったところ、現

在コナカ洋服店のビルのある辺りと特定することがでさ

ました。そこからは晴れていれば富士山がよく眺望でき、

北西には愛鷹山、南には香貫山が見えます。周辺を散策

し、祖父の随筆にある柿田川湧水群や千貫樋を見物して

帰りました。

 すでに述べましたように、明治五年六月一二日に銓吉は宮

内省に出仕していますので、これに先だって東京に移住

したはずです。これに関連して、樋口氏から銓吉が沼津

市大岡(木瀬川)の大古田長平氏宛に小包(同年十一月

十日付)を送っており、その包みが見つかったという

ことで、そのコピーを送っていただきました。銓吉の筆

跡を初めてみることがでさたのですが、この手紙の発信

場所から、銓吉一家は湯島の近くに引っ越してきたもの

と思われます。ちなみに、大古田家は木瀬川村の名主を

務めた有力農民だったそうです。

 

その後−?蔵・石川千代松・エドワード・モ−ス

 私のルーツ探しはこれで一応の区切りがつきましたが、

祖父のことに若干ふれたいと思います。銓吉は石川家か

ら季三を養子としてもらいましたが、その後?蔵が生ま

れました。しかし、季三は二十二歳で亡くなり、?蔵が家

督を継ぎました。石川千代松は義理の兄に当たり、モー

スの弟子でしたが、その関係で、?蔵は千代松に連れら

れて、当時東大構内の官舎に滞在していたモースをしば

しば訪れたようです。モースが初めて来日したのは明治

十年(1877)ですが、?蔵は大正十五年二月号の

人類学雑誌のモース先生追悼号に「思ひで」という一文

を寄せ、次のように述べています。

 「先生は子供が好きであった。私共のようなものに

さへも、愉快に丁寧に色々なことを教へられた。私の

考古の癖は12〜3歳の頃からであったが、多少具体的

に採集をやったり、又此の方面に多大の興味を持つやう

になったのは、一重に先生の指導の御陰であると常に感

謝している。其れから三、四年後故坪井博士や白井博士

などが同じ道を嗜まれるので、此等の諸先輩と共同して

此の方面に向かって取調をしたり、相携えて採集に出か

けたりするやうになった。・・・」

 ?蔵は十五歳の時に向丘の丘で完全な形の土器を発見

し、これが後に弥生式土器と呼ばれるに至りました。?

蔵は東京帝大工科大学の造兵学科に入学し、第一期生と

して卒業後、フランスに留学して大砲の設計を学びまし

た。後に呉の海軍工廠長・造兵中将となり、東京帝大教

授を兼任しました。考古学の道には進みませんでしたが、

終生考古学に興味と関心を持ち続けました。

 なお、?蔵の妻敏子は前田亨と妻(しよ)次女ですが、

は既述の鋸柳湾の孫(柳湾の次男で家督を縫いだ俊

の娘)にあたり、有坂家と館家が理十郎と万世、?

と敏子の二カ所で結ばれていることが分かりました。